先月、元ウォール街の女王として知られるブライス・マスターズが、分散型台帳技術の開発企業Digital Asset Holdings (以後DAH)のCEOを辞任したと大々的に報じられた。
史上最年少でJPモルガンのマネージングディレクターに上り詰め、華々しいキャリアを歩んだマスターズは、ウォール街では知らない人はいないという程のビッグネームである一方で、ウォーレン・バフェットが「金融大量破壊兵器」として批判し、リーマンショックの引き金となった、CDS(Credit Default Swap)の生みの親としても知られている。
2015年、元ウォールストリートの大物が「ブロックチェーンはインターネット以来の発明」と語った事は、当時、一部のギークの遊びとしかとらえられていなかった業界にとって、ある種のセンセーションとなり、マスターズのブロックチェーン業界の参入を各メディアは大々的に報じた。
そんな彼女が、このタイミングでDAHのCEOを辞任した事は、何を意味し、なぜ,その去就のひとつひとつが取り沙汰されるのだろうか。まずは、彼女の経歴とCDSについて簡単に紹介したい。
史上最年少のマネージングディレクター
イギリス・オックスフォードで生まれたマスターズは、1991年にJPモルガン・チェースに入社すると、瞬く間に頭角をあらわし、28歳の若さでクレジット・デリバティブ部門のマネージングディレクターに就任した。
CDSの生み出したデリバティブ市場は、2007年の最盛期には58兆ドルの規模まで拡大し、リーマンショクの遠因となるのだが、その原型は1994年に、JPモルガンのマスターズの率いるチームにより作られた事が知られている。
1994年、マスターズ率いるJPモルガンのチームは、エクソン・バルデス号の石油流出事件を受けて、50億ドルの制裁金が課せられる予定だったエクソンに対して、与信の限度額を48億ドルまで引き上げ、融資を行う事になる。
その際に、JPモルガンはリスクヘッジとして、欧州復興開発銀行とクレジットプロテクション(債務保証)の契約を結んでいる。JPモルガンが欧州開発銀行に対して、保証料(プレミアム)を支払うかわりに、エクソンが債務不履行に陥った場合に生じる損失を、欧州復興銀行が肩代わりするという契約だ。
このスワップ契約は、後にCDSと名付けられ、JPモルガンは、このCDSを別のCDSと組み合わせてパッケージ化する事により市場に販売した。ひとつのCDSはハイリスクだとしても、他の債権を組み合わせてパッケージ化すれば、”見かけ上は”ミドルリスクの商品として評価できるという、いわゆる福袋理論だ。
膨張するデリバティブ市場
当初、CDSはリスクヘッジを目的とする金融市場から歓迎された。また、CDSの売手は債権を転売すれば良いだけなので、この錬金術に各金融機関はこぞって飛びつき、CDSに元づくデリバティブ商品が数多く開発されるようになる。
CDS指数(債権者の与信に基づき設定されるCDSの保証料を平均した指数)を元にしたデリバティブ商品や、合成債務担保証券、(BISTRO)Broad Index Secured Trust Offeringなどの様々な商品が開発され、瞬く間に巨大なCDS市場が形成される。
貸し付ける側からしたら、借り手の与信がどんなに低かろうが、さっさとデリバティブ商品にして債権を転売してしまえば良いので、与信の低い低所得者に対しても、無理やりローンを貸し付けた方が良い。
ハイリスクなCDSを、ミドルリスク、ローリスクな商品と見せかけるために、デリバティブはより複雑化していき、誰もリスクを正確に評価できない程に、いびつで虚ろな市場が形成された。結果、サブプライムローンのバブルが生れ、世界は未曽有の金融危機を迎える事になる。
(参考: Fool’s Gold: How the Bold Dreams of a Small Tribe at J.P. Morgan Was Corrupted by Wall Street Greed and Unleashed a Catastrophe)
無論、サブプライムローンにより引き起こされた金融危機には、数多くの要因と、政治的力学が絡み合っているので、すべて彼女に責任がある訳ではないのだが、ウォーレン・バフェットやファイナンシャルタイムスは、CDSを”金融大量破壊兵器”と糾弾し、リーマンショックの後、CDSの生みのマスターズも批判の対象となる。
「彼女は金融危機の真っただ中でデリバティブ市場を守ろうとした数少ない人物で、その代償を払う事となった。」 Jes Staley
その後、マスターズはJPモルガンのコモディティ部門の責任者に任命されると、ここでも辣腕を振う。彼女の就任後から2014年までの間に、JPモルガンはコモディティ部門において、あらゆる金融機関の中で最大の収益を得るのだが、最盛期の2014年には35億ドルの売上を計上している。彼女はこの頃から、悪名高き排出権取引もデリバティブ商品化する事を推し進めるようになる。
「世界中の温室効果ガスの排出量を減らし、地球を守るためにも、金融機関は排出権取引に関してもリードしなければなりません。デリバティブの価値は、CO2 を始めとする温室効果ガスなどの、あらゆるコモディティの持つ価値から生み出されるのです。」
CDSにより金融危機をもたらした直後に、「CO2排出権をデリバティブ化する」と語る彼女に対して「またバブルを作り出す気か」と市場は戦々恐々とする。その疑いようのない能力と、きらびやかな経歴とは裏腹に“Wicked Witch”(邪悪な魔女)や”シリアル・バブル・メイカー”といった不名誉な渾名が彼女に付いてまわるのには、こうした背景があるのだ。
ブロックチェーンに降り立つウォール街の女王
「私はすべてのキャリアをリスク、市場、インフラ、そして法整備に捧げましたが、その間にも多くの金融危機や、信用リスクによって生じたクレジット・デリバティブ市場の崩壊を見てきました。これらの問題は分散型元帳によって解決出来るのです。ウォール街のバックエンドシステムは何年も抜本的な改善がありませんでしたが、DAHは、銀行や金融機関、投資家などのあらゆるマーケットのプレイヤーがブロックチェーンを用いて全く新しい方法で、あらゆる金融商品を取引するためのソフトウェアとプラットフォームを提供します。」
そんな経歴の元ウォール街の女王が、2015年にDAHのCEOに就任しブロックチェーン業界に参入した事は、当時一大ニュースだった。
市場の反応は様々だったが、仮想通貨を黎明期から支えて来たようなアーリーアダプター達、いわゆる既存の金融機関に対するアンチテーゼや日中央集権を掲げるリバタリアンたちは、”仇敵”であるウォールストリートからやってきた大物(ましてや相手はCDSの生みの親だ)を歓迎するはずもなく、ネット上では誹謗中傷が飛び交い、「仮想通貨をおもちゃにして、またバブルを引き起こすのか」、「お前だけにはブロックチェーンを語られたくない」といった声が駆け巡った。
ティム・ウーが『マスタースイッチ』で指摘しているように、過去の主要な情報技術の発展は、大抵、似たようなパターンを踏襲する。はじめは、有志や研究者の遊び道具として作られる。その時点での技術開発の動機は、好奇心とコミュニティ意識だ。だが、そんな技術もやがては、多国籍企業のものとなり、株主価値の最大化に利用されるようになる。
自分達の技術が、過去の歴史と同じ道を辿る事に対して、彼らが懸念を抱くのは、自然な事かもしれないが、そんなアーリーアダプター達の杞憂をよそに、マスターズの参入を各メディアは大々的に報じ、そして、市場は熱狂する。
なにせ、CDSにより580兆円市場を作り出したウォール街の女王が、今度は「人々は、このブロックチェーンというテクノロジーを90年代初頭のインターネット発展と同様にシリアスなものとして捉えなけらばならない。ブロックチェーンは全てを変える。」とまで言うのだ。
これには、既存の金融機関や大企業も無視する事は出来ず、それまで、一部のギークの遊びとしか見られていなかった”ブロックチェーン” は金融業界の権威の間でも真剣に議論されるようになる。
あらゆる金融系のカンファレンスで、ブロックチェーンという単語が飛び交う光景が日常となり、大手金融機関は立て続けに実証実験の開始のアナウンスをすると、FRBやバンクオブイングランド、日本銀行といった各国の中央銀行もブロックチェーンの研究チームを組成し、実証実験に着手した。
DAHがこれまでに調達した資金も1億1000万ドルを超え、その中にはJPモルガンとCMEグループ、ジェファーソン・リバー・キャピタルなどのそうそうメンツが名を連ねる。オーストラリア証券所は「今後、DAHのシステムを用いて既存のシステムをブロックチェーンに全て置換する」とまで発表しているが、これはマスターズでなければ出来なかったゲームチェンジだったと言える。
そして市場は熱狂する
「ブロックチェーンを用いる事で、より早く、より安く、より安全にあらゆるデータを扱えるようになり、ブロックチェーンは仮想通貨以外にも、あらゆるサービスに使われる事で、人々の生活を抜本的に変えるのです」
仮想通貨ではなく、ブロックチェーンに焦点を当てるマスターズのストーリーテリングも秀逸だった。値段は乱高下を繰り返し、ハッキング事件が多発する事に加えて、国家の概念まで覆しかねない仮想通貨に参入するのには、リピュテーションリスクがあると考える企業も、きらびやかなキャッチフレーズで修飾されたブロックチェーンならば、心置きなく公言できる。
ウォール街の女王のお墨付きを得たブロックチェーンは、晴れてバズワードとなり、世界中のマーケターが呼応して、一大バンドワゴンが形成されるようになる。「ビットコインはダメだけど、それを支える基幹技術であるブロックチェーンはインターネット以来の大発明」といった文言を、誰しも一度は見聞きした事があるはずだ(このフレーズがあまりにも恣意的であった事は、今なら理解して頂けるだろう)。
「ブロックチェーンは世界の飢餓を救う」とまで行くと、誇大広告の域を超えて、もはやポエムに近いが、未解決な技術的課題を棚上げにした無責任で壮大な構想も、ブロックチェーンという魔法の言葉で修飾するだけで、いくらでも資金調達できようになったのはこの頃からだ。
かくして、かつてのウォール街の女王は、既存の金融システムを浄化するために戦う、ブロックチェーン業界のアイコンとして、華麗なる変貌を遂げる。
2017年には、ブロックチェーンの実証実験のアナウンスをしただけで株価が上がり、会社名にブロックチェーンを付けるだけで錯覚資産をつくれる程の狂乱が生れ、世界的なICOバブルの引き金となった。
また、ビジネスモデルやプロダクトは出来ていなくても、とりあえず「ブロックチェーン×●●」を掲げる事業者も多く現れたが、ほとんどの場合、ユーザーは置き去りだ。
ブロックチェーン業界の将来性を否定するつもりはないが、顧客目線で、顧客の悩みに対して解決策を提供する、といったアプローチではなく、事業者本位のプロジェクトが乱立するのも、過去に起こったあらゆるバブルと共通点する(今日、アボガドのサプライチェーンの分散化を切実に望む人など一体どれ程いるのだろう)。
このような業界に人々が違和感を持つのは、他のあらゆる技術と同じように、ユーザー体験を向上させるための”手段”として使われるはずの技術が、それを使う事自体が”目的”になってしまっているからだろう。
(代表的なポエムの例。画像出典:it.impressbm.co.jp)
過去の歴史を振り返ってみても、バブルが生れる際には、恣意的なデザイナーと、それに追随するマーケターがいるものだが、事業者自身が“その熱にあてられる事”も、バブルを構成する上では重要な要素なのだ。
「音楽が鳴り続ける限り、我々は踊り続けなければならない」
チャック・プリンス
バブルの収束と女王の辞任
現在、仮想通貨市場の冷え込みに伴い、2018年のQ2をピークにICOの調達額も縮小傾向にある。先日、世界最大のブロックチェーン開発企業のConsenSysが従業員の40%を解雇した事は象徴的だが、50%のブロックチェーン企業が倒産すると言われているように、もはや、かつての熱気は失われている。
引き続きボードメンバーとして残るとは言え、このタイミングでマスターズがDAHのCEOを辞任して、表舞台から去る事は、あまりにも多くの示唆をはらんでいる。
つい先日までは「ブロックチェーンはインターネット以来の大発明」と散々市場を煽った人物が、下の根も乾かぬうちに、あっさりと辞任する事に対して「無責任だ」という声もあるが、今までバブル市場を作り出して、さっさとExitする事を繰り返してきた彼女の経歴を鑑みると、当然の事でもあると言えるし、業界にとっては、むしろ良い事とも言える。
まっとうに開発と実証実験を続ける事業者にとっては、バブルの雑音がなくなる事は良い事だし、「なんとなく流行っているから」、「カッコ良いから」といった軽薄な理由で、ブロックチェーン業界に来た事業者や詐欺師は淘汰されていくだろう。
もし、あなたが、投機的な対象としてブロックチェーンを見ているのだとしたら、次にマスターズの降り立つ、業界を注視していた方が良いのかもしれない。これまで彼女は業界を問わず、巨大なバブル市場を生み出し続けてきたのだから。なお、2019年1月現在、DAHのホームページにはブロックチェーンという単語は一切使われていない。
あなたは、今回の彼女の去就に何を思うだろう。
(執筆協力:勝木健太)