日本ではロシア人がギャンブル好きだというイメージはないかもしれませんが、実はかつてロシアではギャンブルがとても人気がありました。モスクワやサンクトペテルブルクなどの大きな街では世界的大手カジノ企業によるビジネスがとても盛んでした。しかし2009年施行の大統領令(「カジノに関する第244連邦法」)によって、ロシア国内のギャンブル業界は著しく縮小し、政府のこうした動きは社会では大きな波紋を呼びました。ロシアでカジノが自由に営業できなくなってから10年が経過した今、ロシア大手メディア「コメルサント」の調査結果に触れながら、ロシアのギャンブル業界について考えたいと思います。
ロシアにおけるカジノビジネスの歴史について
古代ロシアでは「ゼルニ(グラノーラの意)」というゲームが広く人気を集めていました。ボヤーリン[1]から農民まで、あらゆる社会階層の人々から親しまれており、近代でいう「ダイスゲーム」のルールにそっくりでした。
16世紀の終わりには、カードゲームが流行り始めました。 当初は何の制限もありませんでしたが、アレクセイ・ミハイロヴィチ[2]の時代に、カードゲームに対して様々な制限が課されました。その後ピョートル1世の時代になると、カードゲームは軍隊と海軍のみで許されましたが、さらに課金可能な金額に制限が課されました。
さらに1761年、ピョートル1世の娘エリザベスが帝位に就くと、カードゲームはギャンブル系カードゲームとトランプ系カードゲームの2つのカテゴリーに分類されました。「トランプ系カードゲーム」は完全に許可されていましたが、「ギャンブル系カードゲーム」は皇帝関連の敷地以外すべての場所で禁止されました。
そしてエカテリーナ2世の時代には制限が緩和され、あらゆるギャンブルに対する規制は全て解除され、その後1917年までカードゲームは規制されることなく自由にプレイされていました。
「十月革命[3]」以降も、カードゲームは依然として国民の中で最も人気があり、一番愛されているゲームの1つでした。当時はソビエト政府による国民の「ブルジョアジーの誘惑と習慣を根絶する」という試みが行われていましたが、ギャンブルゲームは完全に人々の生活に入り込んでいたため、政府は人々のカードゲームに対する行動に影響を与えることが出来ませんでした。
1988年、「ペレストロイカ[4]」時代に初めてスロットマシンが登場しました。当初、できるだけソビエトの人々に使わせないようにする一方で、射幸心の高い外国人観光客をターゲットにするため、インツーリストホテルにのみ設置されました。しかしその年末までに、ソビエト連邦の主要都市ではすでに200台以上のスロットマシンが設置、運営されていました。
ソビエト連邦における最初のカジノは1989年にタリン(当時のエストニア・ソビエト社会主義共和国の首都)に作られました。タリンに作られたのは、ソビエト連邦の中でバルト海が最も「ヨーロッパに近い」場所だと考えられていたことが理由でした。その数ヵ月後にはモスクワの高級ホテル「サボイ」にも作られました。
そして2005年頃、ゲーム業界はその発展のピークを迎えました。当時全国で40万台以上のスロットマシンと5万台以上のゲームテーブルが設置されていました。ゲームクラブの半数以上がモスクワとサンクトペテルブルクにありました。そして2006年、ロシアのカジノビジネス史上、最も大きく重要な転機が訪れます。
2006年、カジノ禁止法が制定
2006年、カジノに関する第244連邦法が発表されました。ロシア国内でカジノを設置することが可能なエリアとして「特別ギャンブルゾーン」を設定し、そのゾーン内でのみカジノ営業を許可し、それ以外は一切禁止とされました。法案は2006年12月に承認され、2007年初頭に有効になってから、当時のオペレーターは2009年7月1日以降のゾーン外での営業を禁止されました。その際、年間36億ドルもの市場が規制対象となりました。
カジノ禁止法の中では「特別ギャンブルゾーン」として、クラスノダール地方の「アゾフ・シティ(Azov City)」、アルタイ地方の「シベリアのコイン(Sibirskaya moneta)」、沿海地方の「プリモリエ(Primorye)」、カリーニングラード地方の「ヤンタルナヤ(Yantarnaya)」の4地域が承認されました。そのうち「アゾフ・シティ」は閉鎖され、その代わりに2014年ソチオリンピックの会場となったソチの「クラスナヤポリャナ(Krasnaya Polyana)」という新しいゾーンが登場しました。
ロシア大手メディアRIA Novostiの今年3月の報道によると、クリミア半島に新たなギャンブルゾーンを設置することが現在議論されています。全ての「特別ギャンブルゾーン」は大都市から離れているどころか、小さい町からも離れており、人が少ない、いわゆる「田舎」に作られました。また営業時間は22:00〜6:00の間のみ、ギャンブル関連の広告はラジオ、テレビおよび特殊な紙媒体でのみ許可され、ゾーン外での屋外広告は禁止されました。
ソース:https://www.smileexpo.ru/public/userfiles/node/800×600-%D1%80%D1%83.jpg
カジノ禁止法制定後の実態
カジノ禁止法について多くのロシアメディアで議論が展開される中で、禁止法が制定された理由として、ロシアのギャンブル施設の人気が過熱しすぎたこと、マネーロンダリングに多く使われていたことが挙げられます。
しかしカジノが「特別ギャンブルゾーン」に移転しただけで、実態としてロシア人はギャンブルを続けることができています。それは違法カジノやオンラインカジノが存在するからです。厳密には、オンラインカジノも件の法律の対象になりますが、「オンラインカジノを利用すること」は禁じられていません。現状、すべてのオンラインカジノオペレーターはキュラソー島やマルタ島をはじめ、ロシア国外に登録されており、ロシア政府が毎月数件のオンラインカジノサイトへのアクセスをブロックしています。
「特別ギャンブルゾーン」はロシア版ラスベガスにはなりませんでした。法律施行前の大手カジノオーナーは4つの「特別ギャンブルゾーン」のいずれにも入っていません。ソチのゾーンにはシンガポールの投資家が、沿海地方のゾーンには中国や韓国の投資家が出資しています。他に地元の事業家が投資家として初めてギャンブルビジネスに関わるケースも多いようです。
これらの「特別ギャンブルゾーン」では事業者同士の競争が激しくない代わりに、ターゲットとなる顧客が不足しているエリアもあるようです。「ゾーン」の近くには、住んでいる人がいないため時間をかけて遊びに来る観光客がターゲットになります。「シベリア・コイン」の場合、その隣町までモスクワから便を出している航空会社がS7の1社しかなく、しかも往復で35万ルーブル(約60万円)以上かかります。一方、ソチのカジノにはモスクワからの観光客が多く、また沿海地方のゾーンはアジアからの観光客がたった2時間で遊びに来ることができます。
カジノが減って、利益を得たのは誰か?
カジノの数が激減したことで、ブックメーカーや宝くじビジネスが近年成長しています。しかし民間での宝くじの事業は2014年7月に禁止され、現在ではスポーツ省と財務省によって販売される宝くじのみが許可されています。さらに当局は、ブックメーカーの純資産価値および資本金に対しても厳しい要件を設定しました。
なおブックメーカー市場は2008年650億ルーブル(約1116億円)に対して、2017年には10倍に成長したと発表されています。さらに去年にはサッカーワールドカップの影響で1.15兆ルーブル(約2兆円)にまで上り、ロシア史上最大の成長をみせました。NeoAnalyticsの調査によると、ブックメーカー市場は2021年までに、控えめかつ堅実な予測として、12〜15%もの年間成長率を見せるとされています。
カジノ禁止法から10年。その評価は?
2009年7月にカジノ禁止法が施行されてからちょうど10年になります。本稿ではロシアのギャンブル史やカジノビジネスの変遷についてまとめましたが、ロシアでいかにゲームが愛され、また禁止されても形を変えてその人気を維持してきたかが分かるでしょう。しかし一方でカジノやギャンブルに対して良くないイメージを持つ人々も多く、むしろ多数派です。
現在ロシアではプーチン大統領に対する支持率や実績評価にはかなりの波がありますが、ロシアの街中から「マフィア」を排除したこと、またカジノを禁止したことについては一般に広く認識されており、また高く評価されています。日本で例えるなら、安倍首相が日本全国からパチンコ店を排除するような、非常に大きなインパクトを持つ出来事なのです。
しかし実態として元々カジノで遊んでいたユーザーたちはオンラインカジノに流れ、さらにブックメーカーという形で新たな顧客層を増やし続けており、規制するだけでは国民の習慣を変えることは容易ではないということが窺えます。一方で外国人観光客からは「特別ギャンブルゾーン」を通じて利益を上げようとする政府の狙いも垣間見えますが、国内の需要を管理しながら、外需を促進しようとすることも容易ではないようです。
ソース:
https://www.kommersant.ru/doc/4006086
[1] ロシアのピョートル1世以前(10~17世紀)の貴族身分で,公身分(クニャージ)につぐ最上位の社会階層
[2] モスクワ・ロシアのツァーリ(在位1645年 – 1676年)
[3] 1917年10月25日、当時のロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で起きた労働者や兵士らによる武装蜂起を発端として始まった革命。
[4] 1980年代後半からソビエト連邦で進められた政治体制の改革運動
ロシア・ウラジオストク出身。14歳のときに国際交流プログラムで来日した事がきっかけで、日本語の勉強を開始。極東連邦大学日本語学部に進学し、卒業後、日本の商社に就職。投資会社を経て、2018年、ブロックチェーンプロジェクトのコンサルティング業務を手掛けるベンチャー企業FEB株式会社に転職。堪能な語学力を生かして、「ロシアンOLちゃん」として、ロシアや欧州の情報をツイッターで配信する。「ロシアの仮想通貨情報をひたすら翻訳するブログ」(https://cryptorussian.blogspot.com/)も運営。